1981年、昭和56年に所帯を持っていた京都市北区から淡路島に移住してきて40年が経った小松です。
当時はまだ「田舎暮らし」なんて言葉もなかった状態。
私が入った集落では、『戦争中に神戸から疎開してきてお堂に住んでた人がおったけど、その人らが出て行ってからよそから入って来たんはあんたらが初めてや!』なんて信じられない言葉を聞かされたものです。
最初は、とにかく「村」に溶け込まないといけないんだと、地域のあらゆる行事に参加しました。「お大師講」…読まれてる方には意味わかんないでしょ!…からお地蔵さんの当番、祭りでは檀尻を担いで、しっかりと地域行事に参加をしたつもりだったけど、扱いはあからさまに「よそ者」!
はっきり、心が折れました。知人からのお誘いもあり、関わっていた運動の立て直しに淡路島での暮らしをあきらめ、東京へ暮らしを移しました。
2年間、立て直しには一定の成果も挙げ、しかし、大都会での暮らしには違和感を禁じえず、「やっぱり田舎で暮らしたい」との思いを募らせ、運動の中で知り合った方々からのお誘いもたくさん頂戴しました。
20haもの農地をほぼ無料で貸すから農業をやってみないか? 等々ありがたいお誘いも頂いたのですが、もう一度淡路島で…との思いが強く、μターンすることを決めました。
「μ」とは都会から田舎へI(アイ)ターンして、再び都会へU(ユー)ターン、更にもう一度元の田舎へμ(ミュー)ターンという意味です。
で、なぜ淡路島にμなの?
・気候が温暖で、農産物、海産物が豊かで美味しい
・適度な田舎で、神戸や大阪にも近い(と言っても当時は明石海峡には橋が無かったので、神戸まで3時間近くかかってましたが)
・「人」が温かい よそ者扱いには違いが無くても嫌ったり排除するというものではなく、一定の距離を保つ感じ
で、1987年に淡路島にμターンしました。以前よりはもう少し都会の、洲本市の郊外に家を借りました。それに際し、一つ決意したことがありました。「私はよそ者」という立場を明確にする。無理に地域に溶け込もうとはしない。
このことをしっかりポリシーとして暮らしていくと、目の前の霞がさぁ~っと消えました。と言っても地域社会とのトラブルが無くなったわけではありませんが。 曰く『市役所にものを申すときには事前に町内会長を通してほしい』なんて苦情は茶飯事でしたが。
「出る杭は打たれる」でも「出過ぎた杭は打たれない」なんて若気の至りで嘯いていました。
そうこうしている間に子どもたちも成長し、PTAの役員だとかあれこれ回ってきて、地域の人たちとの関りも増えていきます。暮らしていくための生業もしっかり営んでいかなくてはなりません。
そんな暮らしをしていると「よそ者」だからこそ地の人が気付かない地域の資源を知っている、輝くような地域のすばらしさに気付いている、そんな実感がありました。
たとえば春。淡路島の山はほとんどが自然林で、落葉広葉樹が主です。山桜の桃色、ウバメガシの濃緑色、コナラの浅黄色、えも言われない色調に染まります。この春の淡路島の山は、日本全国どこに行っても引けを取らない美しさだと確信しています。杉や檜といった特定の樹種を植林しているのではなく、この地の気候風土に合った樹種が生育しているからこそ醸し出される風景なんだと思います。
相談業務をしていて、時に耳にするのが「都会の人間関係に疲れた、田舎で人との関係に気を遣わず生きていきたい」というものです。はっきり申し上げて、これは無い物ねだりです。「田舎」とは都会以上に濃密な人間関係があり、ともすればプライバシーの概念もないんじゃないかと感じるような社会だと意識した方がいいと思います。空や山を眺めながら他人を意識せずにぽつんと暮らしたいのであれば、神戸市北区あたりの裏六甲(あ、これ差別用語ですかね? 北六甲がいいですか?)の高層マンションの最上階にでも住まれることをお奨めします。
なんだかんだと訳の分からんことを書き綴ってきましたが、現在はこよなく淡路島を愛し、島に骨をうずめる気でいる他所から移り住んできた相談員です。40年間、淡路島の変化も目の当たりにしてきました。正直、こんな風に変化するとは想像もつきませんでした。
でも正直、このコロナ禍の中、神戸・大阪から至近距離にあり、田舎過ぎない「とかいないか(都会田舎)」の淡路島には大きな可能性があるのではないかと確信しています。
ぶっちゃけ、本音の移住相談、楽しみにしていますよ!